スキップしてメイン コンテンツに移動

恐怖を克服するために

12月7日のエントリ(niji wo mita: 内的にはオカルト、外的には科学的に解釈できる)で書いたとおり、僕は飛行機の恐怖を劇的に克服した。そこでは心が内的に感じ取ったことを、かなり主観的な角度から書き記したが、もう少し客観的に書き残しておきたい。恐怖との距離の取り方が分かったものの、完全に怖くなくなったわけではないし、次に飛行機に乗ったときにまたダメになっているかも知れないからだ。だから乗り越えるためのノウハウを書いておく。そして願わくば同じように飛行機を恐れる人にわずかでも役に立つことがあればと思う。

1. 言語化を試みる
心理言語学などでもケーススタディとして紹介されることがよくあるが、いま起こっていることに言語で形を与えられると恐怖が解消されることがある。僕の場合はなぜ揺れるのか仕組みがわからない、いつ揺れが来るのかわからない、揺れの持続時間がわからない、などが恐怖の主要因であることは分かっている。

2. 心の中にトーテムを作る
恐怖を自分に留めずにとおりぬけさせる方法は、要は恐怖に執着しないということだ。と言って、心を無にすることは修行僧ではないので難しい。ここは意識の選好性を利用して別の何かに集中するのが良い(三宅乱丈『ペット』で言うところの「蝶を見る」行為)。トーテム、すなわちそれさえ見ていれば他を見ずにいられるような、強い対象を作る。例えば単純で繰り返しを伴うものが良い。昔の人が念仏を唱えるのも本質的にはこれと同じだろう。ちなみにトーテムという用語は映画インセプションからのパクリもの。この場合、学術的な正確さではなくて自分の中に理路を作ることが大切。

3. 恐怖には時間がある
こうすることで、気持ちの方が恐怖に適応して来るわけだが、それでも大きな揺れはやって来る。そういう時は、これはすぐに終わるはずと思うようにする。長くは続かない、一定時間耐え忍べば必ず終わると強く思うようにする。終わりが見えないと不安で恐怖は増大する。だから例えば航路の天候、安定高度に達するまでの時間、飛行機の大きさなど事前に分かることは調べておいたほうが良い。そのほうが、恐怖に終わりがあることを自分に言い聞かせやすくなる。

4. 課題:スイッチの入れ方
以上を踏まえれば飛行機は怖くないのかといえば、そうでもない。恐怖は恐怖としてそこにある。恐怖に対して距離をおく、自分を通り抜けさせることで動悸、発汗、硬直などの身体反応を抑制できるということだ。帰りの飛行機でも若干の身体反応はあった。どうも残る問題は、上記状態に気持ちを持っていくまでには少し時間がかかることにある。飛行機から降りて、揺れる(かもしれない)状況から安定した状況に置かれると、今度はその状況に気持ちが慣れてしまって、飛行機モードに切り替えるのに時間がかかってしまう。僕の場合は、年間に1度あるかどうかの搭乗機会なので、次も気持ちが慣れるまでにひと通りの恐怖を体験するかも知れない。そのためには、飛行機モードに気持ちを切り替えるためのスイッチを考えておくなどのトレーニングが必要なのだと思う。

5. 補足:コツを発見するまで
おそらくこれが最も難しい。自転車と同じで、コツをつかむのは難しいが一度つかめば忘れることはないと思うのだが、その最初のチャンスをどうやって得るのか僕にはよく分からない。僕がつかんだきっかけが恐怖克服のための普遍的方法であるかも分からない。しかし、ひとつのケーススタディとして言えば、恐怖を作り出しているのは自分自身の心だということだ。だから恐怖に執着している自分に気づくことが大きなポイントだったと言える。誰しも自分のエゴから自由になることは難しいが、何かショックなことに巻き込まれたり、すごく悲しいことがあったり、あるいは徹夜が続いて身体が極限まで疲れたりしたときには、意外に人の言葉が心に直撃することがある。いわば心の自己防御力がゼロになる瞬間こそが気づきのチャンスだと言えるだろう。それを虚心坦懐に待つ、ということが(カウンセリングのお世話になる他では)唯一の方法に思える。

僕の場合は、長時間揺れる飛行機に乗っていて心身ともに疲れていたこと、映画インセプションがたまたま自己抑圧を解放するテーマだったこと、祖母が亡くなった悲しみの代償としての「泣く」行為が突然やってきたこと、などの偶然が重なって、心の防御力がゼロになった。その偶然がこのタイミングで起こった必然性、とロマンチックに考えたくもなるが(それが内的には神秘体験として現れたということ)、案外心理学的には恐怖への適応過程として普通に説明できるものなのかも知れない。

* * * * *

余談だが、今回の同行者に「怖いもの」を一人ずつ聞いてみた。みな、パニックに陥りそうになるほど怖いものを持っているものなのね。だいたいそういうものは、見ないよう体験しないよう避ける知恵で対処するようだ。飛行機のように、仕事によってどうしても避けられないために克服を要するものは、さほど多くないのだろう。何も恐怖を克服する必要はなくて、避けることも大事な方法の一つということは、忘れずにおこう。

コメント

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語