テッド・チャン『あなたの人生の物語』(→amazon)に収められている短編、表題作である「あなたの人生の物語」が衝撃的に面白かったので紹介したい。知的冒険や知的実験に興味がある向きはぜひぜひと思う。優れたSF作品に与えられる各賞を総なめにしているように、この作品はまずSFとして評価されているようだが、狭義のサイエンス・フィクションを越えて面白い。
ガワとしてのSFを取りだせば陳腐なものだ。地球にやってきたエイリアンと言語学者が対話をする。対話を通じてエイリアンの言語形式を自分のものとした言語学者は、時間を越えて事象を認知する力を身につける、といったもの。しかしよくできたSFの背後には、言語学に対する理解と、人間の言語が人間の認識世界を作り出しているということに対する深い内省とがあるように思われる。そこが知的に興奮できるところだ。
* * * * *
主人公の言語学者が対話を強いられるエイリアンの外見は人間のそれとはまったく異なる。
この身体的特徴が、ヘプタポッドの言語(特に書記言語)を規定している。人間がリニアに物を考え、そのことが時間という概念を高度に派生したことは、たとえば前に注意を払いながら動いていけるように、目や足が配置されている身体的特徴と無関係ではない。主人公がヘプタポッドの言語を学習して理解したのは、ヘプタポッドの身体的特徴がもたらした非リニアで複数の事象を同時的に把握する認知方式だった。
ヘプタポッドは我々人類の一部がそうであるように(書記言語を持たない言語は持つ言語より多い)、音声言語と書記言語を持つ。ヘプタポッドは人間と違う身体構造であるから、人間用の音声記号でその言語を記述できないので、サウンドスペクトログラフを見ながら音素を決定し、音素を手掛かりに語を決定し、文法カテゴリーを発見していく。また発見された文法カテゴリーは人類言語の類型論的な普遍性に基づかないものが含まれていたりもする。分析の過程は未知の言語と出会った言語フィールドワーカーが実際に取る手法に基づいていて、言語研究者はまずまず楽しめるだろう。
しかしこの作品の肝は、ヘプタポッドの書記言語の方にある。
そうして出来上がったスクリプトは人類のリニアな認識方法で見てみれば、どのパーツから読み始めてもゴールである全体の把握には支障がない。そうやって認識できるものと言えば、絵画やダンスに近いものと言えるだろう。そして、リニアな認知方式、たとえば言葉で絵画やダンスを説明してもそれは十全に内容を移しかえたとは言えないように、ヘプタポッドの書記言語を真に理解するにはおそらく人間の言葉を介さず理解するしかない。ちょうど五十嵐大介が「言葉で理解すれば、言葉で捉えられなかったものは漏れ落ちていく」と主張するようなものだ。
ヘプタポッドの書記言語にはもう一つ大きな特徴がある。絵画のようなスクリプトの「書き始め」の筆の動きには、これから書き進めていこうとする論述の枝葉やゴールを詳細に知っていなければ現れないような特徴が見てとれるというのだ。
架空の言語とはいえ、実際に眼で見てみたいところだが、とにかくそういう特徴があるという。そしてその特徴の背景にあるヘプタポッドの認知システムはどのようなものなのか。物語はここから佳境に入る。ヘプタポッドの書記言語に習熟しつつある主人公は、ヘプタポッドの認知システムを身につけ始めるのだ。これぞまさにサピア・ウォーフのテーゼ「言語は思考を規定する」を地で行くものであり、もし人類言語の普遍性から外れる言語に思考を規定されたら、俺たちはどうなっちゃうんだろう??という知的妄想をこよなく愛する精神年齢3歳的な人たちにバカ受けな問いなのである。宇宙の外には何がある?レベルの問いであるから、この問いはSFでこそ応答するのがふさわしい。
ここでエイリアン分析チームの物理担当が光の屈折現象を用いて、主人公にヘプタポッドの認識世界を考えるヒントを与える。作中では図を用いての説明なので、文章で説明するのははなはだ心もとないが、何とか説明してみる。空中を進んできた光は、水中に入ると屈折して進む。空中と水中では光の進むスピードが異なるので屈折が起こると説明される。しかし実は屈折して進んだ方が、かかる時間は少なく済んでいるという。なぜなら水中の光の速度は遅くなるわけだから、「光としては」できるだけ空中で距離を稼げばかかる時間は少なくなるというのだ。つまり水底の目標に水面に対して斜めに光を当てるとすると、屈折せずに進むよりも、目標より射角を上げてたくさん空中を進み、水面で屈折して目標に到達した方が「光としては」都合がよいというわけである。もっとも、空中で進む割合をあまり上げてしまうと今度はトータルでの距離の方が上回り、結果的にかかる時間は多くなってしまう。「光としては」あらかじめ最短ルートを知って、それから射出する、というプロセスを取っているということになる。
と説明すると、エセ科学バッシングの人たちは「それは目的論的」と言うだろう。そうです。目的論的です。光は意思を持つわけではないので、こういう説明をするとバーカと言われる。けどこれはSFの実験小説なのです。
作中ではこの目的論的なありかたが、ヘプタポッドの、事象を同時的に認識する力を理解するためのヒントとなる。我々人間は因果と結果でものごとを捉えようとする、因果律にしたがってものを考えがちである。我々は未来=結果に対しての因果であるが、自由意志を持つために結果を変えられると信じている。したがって決定された未来はないということになる。また知った瞬間に未来を変えられる可能性を持つわけで、その意味で理論的には未来を知ることはできない。しかし目的論的なあり方に従えば、ある未来=目的にしたがって現在が動いていることになるから、運命はすでに決定されていることになるし、決定されているなら我々の意思などは未来を変えることに何の影響も与えないわけだから、未来を知ることができる。
ヘプタポッドの書記言語の背景にある認識世界は、同時的認識世界であり、目的論的なものだった。これは人類が逐次的認識の世界に住んでいて、かつ因果律的な認識をしがちであることと全く異なる。主人公は人間とヘプタポッドの2つの認識世界のバイリンガルとなる。
新しい認識世界を得た主人公は、物語の最後に至って、自分がこれから産み落とすだろう娘、それ以前に子供を作ろうとするだろう男性とベッドで愛を語る。その娘、男性との家庭、起こる出来事を主人公はすでに全て知っている。未来を知る認識世界を得たのだから。そして読者もそれを疑似体験する。なぜなら、この物語の構造は、冒頭から主人公女性のモノローグによる、未来とも過去ともつかない体験の語りが時間軸に沿わないややランダムな形で、しかもエイリアンとの交流の語りと相互に交わる形で挿入されているからだ。この語りの形式、物語の構造は何なのだろうという問いが、主人公の変化とともに明らかにされる。結果からスタートし因果へと帰る目的論的語りと、因果からスタートして結果へと帰る因果律的語りが同時に認識され、読者にも主人公と同じ体験ができるというわけである(ミシェル・ゴンドリーによるチボマットのPVを思い出した)。この作品がただの思考実験ではなく、優れた作品としても成立しているのは、こうした仕掛けにもよるのだろう。
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同時的認識様式を得た者は、決定された未来へと調和しようとする。つまり全てが分かっていることであるから、言語を使う動機はきわめて遂行文的となる。「あなたを逮捕します」という文が、「これから私はあなたを逮捕する未来」を知った上で、その未来を遂行するかのように。行為と主体は一体化している、対象と主体は一体化している、という言説はオイゲン・ヘリゲルに語られたように(→東洋的な見方)、かつては「東洋的なもの」と言われた。テッド・チャンがその名前から分かるように、東洋人の血を引くことが、このような作品を生み出したのかもしれない。
ガワとしてのSFを取りだせば陳腐なものだ。地球にやってきたエイリアンと言語学者が対話をする。対話を通じてエイリアンの言語形式を自分のものとした言語学者は、時間を越えて事象を認知する力を身につける、といったもの。しかしよくできたSFの背後には、言語学に対する理解と、人間の言語が人間の認識世界を作り出しているということに対する深い内省とがあるように思われる。そこが知的に興奮できるところだ。
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主人公の言語学者が対話を強いられるエイリアンの外見は人間のそれとはまったく異なる。
一個の樽が七本の肢に接合されて宙に持ちあげられているように見えた。放射相称の形態をなし、肢はいずれもが腕としても脚としても用いることができる。わたしのまえにいる一体は四本脚で歩きまわり、あとの三本は腕として側方に巻きあげられていたが、隣りあっている腕はなかった。ゲーリーは”それら”を七本腕(ヘプタポッド)と呼んだ。〈中略〉全周に眼が配されているから、あらゆる方向が”前方”にあたっているのだろう。(pp.187-188)
この身体的特徴が、ヘプタポッドの言語(特に書記言語)を規定している。人間がリニアに物を考え、そのことが時間という概念を高度に派生したことは、たとえば前に注意を払いながら動いていけるように、目や足が配置されている身体的特徴と無関係ではない。主人公がヘプタポッドの言語を学習して理解したのは、ヘプタポッドの身体的特徴がもたらした非リニアで複数の事象を同時的に把握する認知方式だった。
ヘプタポッドは我々人類の一部がそうであるように(書記言語を持たない言語は持つ言語より多い)、音声言語と書記言語を持つ。ヘプタポッドは人間と違う身体構造であるから、人間用の音声記号でその言語を記述できないので、サウンドスペクトログラフを見ながら音素を決定し、音素を手掛かりに語を決定し、文法カテゴリーを発見していく。また発見された文法カテゴリーは人類言語の類型論的な普遍性に基づかないものが含まれていたりもする。分析の過程は未知の言語と出会った言語フィールドワーカーが実際に取る手法に基づいていて、言語研究者はまずまず楽しめるだろう。
しかしこの作品の肝は、ヘプタポッドの書記言語の方にある。
わたしたちの最大の困惑の種は、ヘプタポッドの”文字”だった。なにしろ、まったく文字には見えない。どちらかというと、複雑なグラフィックデザインの寄せ集めに見える。この表語文字の配置には、行や渦巻きといった線形(リニア)の様式はどこにもない。フラッパーもラズベリー(稿者注:ヘプタポッドに主人公らが名付けたあだ名)も文をそのようにはつづらず、必要となった多数の表語文字をくっつけあわせて巨大な集合物にしてしまうのだ。(p.207)
そうして出来上がったスクリプトは人類のリニアな認識方法で見てみれば、どのパーツから読み始めてもゴールである全体の把握には支障がない。そうやって認識できるものと言えば、絵画やダンスに近いものと言えるだろう。そして、リニアな認知方式、たとえば言葉で絵画やダンスを説明してもそれは十全に内容を移しかえたとは言えないように、ヘプタポッドの書記言語を真に理解するにはおそらく人間の言葉を介さず理解するしかない。ちょうど五十嵐大介が「言葉で理解すれば、言葉で捉えられなかったものは漏れ落ちていく」と主張するようなものだ。
ヘプタポッドの書記言語にはもう一つ大きな特徴がある。絵画のようなスクリプトの「書き始め」の筆の動きには、これから書き進めていこうとする論述の枝葉やゴールを詳細に知っていなければ現れないような特徴が見てとれるというのだ。
その冒頭の線を完成された文と比較すると、その線は、メッセージ中の異なるいくつかの節に関与していることが見てとれた。”酸素”にあたるその表義文字のなかで、その線は他のいくつかの要素からそれを区別する決定素としてはじまり、ついで下方へ滑りおりて、二個の月のサイズの記述中において比較を示す形態素となる。そして最後に、”大洋”にあたる表義文字をなす弧状の背景として、大きくひろがっていた。それでもまだ、これは単一の連続した線、フラッパーが書いた一本目の線にすぎないのだ。これは、ヘプタポッドは第一本目の線を書きはじめるまえに、全体の文の構成がどうなるかを心得ていなくてはならないことを意味している。(p.237)
架空の言語とはいえ、実際に眼で見てみたいところだが、とにかくそういう特徴があるという。そしてその特徴の背景にあるヘプタポッドの認知システムはどのようなものなのか。物語はここから佳境に入る。ヘプタポッドの書記言語に習熟しつつある主人公は、ヘプタポッドの認知システムを身につけ始めるのだ。これぞまさにサピア・ウォーフのテーゼ「言語は思考を規定する」を地で行くものであり、もし人類言語の普遍性から外れる言語に思考を規定されたら、俺たちはどうなっちゃうんだろう??という知的妄想をこよなく愛する精神年齢3歳的な人たちにバカ受けな問いなのである。宇宙の外には何がある?レベルの問いであるから、この問いはSFでこそ応答するのがふさわしい。
ここでエイリアン分析チームの物理担当が光の屈折現象を用いて、主人公にヘプタポッドの認識世界を考えるヒントを与える。作中では図を用いての説明なので、文章で説明するのははなはだ心もとないが、何とか説明してみる。空中を進んできた光は、水中に入ると屈折して進む。空中と水中では光の進むスピードが異なるので屈折が起こると説明される。しかし実は屈折して進んだ方が、かかる時間は少なく済んでいるという。なぜなら水中の光の速度は遅くなるわけだから、「光としては」できるだけ空中で距離を稼げばかかる時間は少なくなるというのだ。つまり水底の目標に水面に対して斜めに光を当てるとすると、屈折せずに進むよりも、目標より射角を上げてたくさん空中を進み、水面で屈折して目標に到達した方が「光としては」都合がよいというわけである。もっとも、空中で進む割合をあまり上げてしまうと今度はトータルでの距離の方が上回り、結果的にかかる時間は多くなってしまう。「光としては」あらかじめ最短ルートを知って、それから射出する、というプロセスを取っているということになる。
と説明すると、エセ科学バッシングの人たちは「それは目的論的」と言うだろう。そうです。目的論的です。光は意思を持つわけではないので、こういう説明をするとバーカと言われる。けどこれはSFの実験小説なのです。
作中ではこの目的論的なありかたが、ヘプタポッドの、事象を同時的に認識する力を理解するためのヒントとなる。我々人間は因果と結果でものごとを捉えようとする、因果律にしたがってものを考えがちである。我々は未来=結果に対しての因果であるが、自由意志を持つために結果を変えられると信じている。したがって決定された未来はないということになる。また知った瞬間に未来を変えられる可能性を持つわけで、その意味で理論的には未来を知ることはできない。しかし目的論的なあり方に従えば、ある未来=目的にしたがって現在が動いていることになるから、運命はすでに決定されていることになるし、決定されているなら我々の意思などは未来を変えることに何の影響も与えないわけだから、未来を知ることができる。
ヘプタポッドの書記言語の背景にある認識世界は、同時的認識世界であり、目的論的なものだった。これは人類が逐次的認識の世界に住んでいて、かつ因果律的な認識をしがちであることと全く異なる。主人公は人間とヘプタポッドの2つの認識世界のバイリンガルとなる。
新しい認識世界を得た主人公は、物語の最後に至って、自分がこれから産み落とすだろう娘、それ以前に子供を作ろうとするだろう男性とベッドで愛を語る。その娘、男性との家庭、起こる出来事を主人公はすでに全て知っている。未来を知る認識世界を得たのだから。そして読者もそれを疑似体験する。なぜなら、この物語の構造は、冒頭から主人公女性のモノローグによる、未来とも過去ともつかない体験の語りが時間軸に沿わないややランダムな形で、しかもエイリアンとの交流の語りと相互に交わる形で挿入されているからだ。この語りの形式、物語の構造は何なのだろうという問いが、主人公の変化とともに明らかにされる。結果からスタートし因果へと帰る目的論的語りと、因果からスタートして結果へと帰る因果律的語りが同時に認識され、読者にも主人公と同じ体験ができるというわけである(ミシェル・ゴンドリーによるチボマットのPVを思い出した)。この作品がただの思考実験ではなく、優れた作品としても成立しているのは、こうした仕掛けにもよるのだろう。
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同時的認識様式を得た者は、決定された未来へと調和しようとする。つまり全てが分かっていることであるから、言語を使う動機はきわめて遂行文的となる。「あなたを逮捕します」という文が、「これから私はあなたを逮捕する未来」を知った上で、その未来を遂行するかのように。行為と主体は一体化している、対象と主体は一体化している、という言説はオイゲン・ヘリゲルに語られたように(→東洋的な見方)、かつては「東洋的なもの」と言われた。テッド・チャンがその名前から分かるように、東洋人の血を引くことが、このような作品を生み出したのかもしれない。
コメント
ボクも方向の世俗で生きながら、
そういうコトを網の魚で自己認識せられる様様で、声を出して生きたいなァ。そうして、送電さえも困難な山岳地帯も越えてユク。
「ヘプタポッドの書記言語の背景にある認識世界」が、こんな西の都で恋を歌う。
ボクらこんな『東洋人』。西のボク達も、大きい人たちも、この声がもうじきに万年雪を蒼くする大生叫び(おおさけび)もたらしたのだった。