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1979年10月ごろのこと

僕が1979年の10月ごろ何をやっていたか。子供と同じ小学校1年生のころか?鉄腕アトムの新しいシリーズがやっていたころ、僕は中京テレビか何かの夕方の再放送で妖怪人間ベム(→妖怪人間ベム - Wikipedia)を見ていた。ちょうど第3話だったはずだ。秋口くらい、もう日が暮れるのが早くて、そのころ住んでいた家は愛知県の片田舎の、立てつけの悪くなった古い貸家だった。かつての家主が植えた朽ちかけた桜の木や藤棚のあつらえてある家で、子ども心に薄らぐらい家だなと思ったものだ。藤棚の下で桜を見ていると、時折あの青と赤のイボがある毒々しい毛虫が膝の上に落ちてきて、泣いて誰かに取ってくれと叫んだりした。シロアリが土台を食ってしまったために柱の中がボロボロなのを見て驚いたりもした。当時から両親は共働きだった。母は末妹となる三人目を身ごもっていたが、遅くまで働いていたように記憶している。そんな中、妹と二人テレビを見ていたのだった。で、当時のことをなぜ覚えているかと言うと、妖怪人間ベムの第3話がすごくこわかったからだ。



第3話の内容は、実はきちんと覚えていないが、なんとなく強烈な記憶の断片がある。村に定期的に化けものが現れる。化け物がやってくると村人が死ぬ。そこへベム一行が現れる。化け物を退治すべく詳細を村人に尋ねても、一様に押し黙ったままで口を開かない。そうこうしているうちに化け物が現れるがどうしてもベムたちは倒せない。おかしいと思ったベムはどこかから妖力が流れ込んでいることに気づき、その源を探す。源は13と番号付けされた墓場だか倉庫だかだった。中には頭がい骨があり、それが呪いの力を放っていた。かつて村人が何かの理由でよってたかって殺してしまった女の怨念が化け物を生み出していたのだった。

幼心に、その怨念の「感じ」はとても強烈だった。呪いの波動は複数の女性のうめき声として演出されていたし、頭がい骨から発せられる怨念の放射はとても嫌な色の組み合わせで描かれていた。小学校一年生にとって、その演出はどこをどうとっても悪夢として完璧だった。そうなると夕方の古い家は恐怖を掻き立てる装置が満載で、塗り壁のくすみから床板のギシギシいう音まで何から何まで怖くなる、ので、当時のことを今でも思い出せるのだった。

以後、不思議なことに、たまたまテレビをつけるとそのシーンに出くわした。学年が変わって、違う時間帯だった時も、たまたまテレビをつけた時が妖怪人間ベムの第3話。次に引っ越しした5階建てのマンションに住んでいた時も見たように思うし、その次に引っ越しした新築の家でも見たように思うし、そのまた次の貸家でも。見るたびに嫌な気持ちがするのにまた見てしまうのだった。見るたびに心に焼きつけられる完璧な演出。かすかに吐き気を感じつつでも見てしまう。

(追記)
調べてみたら第3話は「死びとの町」と言うらしい。あらすじ「1人の女が行き倒れとなって死んでしまった。彼女は自分を冷たくあしらった町の女たちに憑りつき、背筋も凍る恐ろしい宴会を始めようとしていて…。」(→Yahoo!動画 - アニメ - 妖怪人間ベム - 第3話 死びとの町)これ読んだだけで軽くトラウマのフラッシュバック。記憶と少し違うみたいね。

(追記2)
アニメ 妖怪人間べム 第03話 「死びとの町」 ep3 jp tv old anime - Infoseek 検索 動画検索β、ここで見られます。というかいま見てる。頭がクラクラしてきた。

(追記3)
確かにこれだ。これがあれだ。

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