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2013年のマンガと音楽を振り返って

マンガ編

今年読んだマンガで印象に残っているものはなんといってもあずまきよひこ『よつばと!』(→amazon)です。今更です。あらいけいいち『日常』(→amazon)の系統でしょ、と思っていたら全然違った。ほのぼの日常系の時間表現と子どものリアルな描写に引き込まれて、無時間的な喜びに身を浸しました。12巻のキャンプのくだりとか神と思う。過去3年くらいにさかのぼってのベストマンガかもしれない。生活変えようかと思ったもん(変えられなかったけど)。
朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』(→amazon)も良かった。もともと朔ユキ蔵は清濁併呑修行僧的な作風で、エロの陰にジョージ秋山『アシュラ』が隠れていた。そういう意味では仏教マンガを描くのは時間の問題だったと思う。4巻に及んでサブ主人公の内面が吐露され、これまで以上に目が離せない展開に。『黒髪のヘルガ』(→amazon)以降、特に好きな作家です。
東村アキコ『かくかくしかじか』(→amazon)は、東村の高校から大学時代を描こうとするもの。漫画家自伝ものを描くと東村でさえもマジメな語り口になるんですね。既発表作品を彩る過剰にドライブするギャグのなかにいつも対照的に描かれていたナイーブな主人公がどれも東村本人であったことが改めて分かります。だから気に入った。だからいい。(c)岸辺露伴
新井英樹『宮本から君へ』(→amazon)は学生時代では絶対読めなかった。実際嫌いだったし。それだけ誰かにはっきりと嫌悪されるのは、それだけ表現したいことが伝わっていたからなんだと思う。ライバル会社との営業勝負を描いた前半部、レイプ事件犯タクマとの戦いを描いた後半部と両方読ませた。それにしても90年代にこの作品はないなと改めて思う(笑)。
『愛しのアイリーン』(→amazon)は農村部の外国人配偶者をめぐるドタバタと、日本社会にやがて訪れることになった少子高齢化の問題を予見的に描いています。ラストの凄まじさは気軽に再読しようという気持ちを強烈に抑えこんでます。
森薫『乙嫁語り』(→amazon)は描き込む凄さを実現した点でここに掲げます。中央アジアの民俗文様を刺繍に編みこむ話が超絶すごい。絵だけをずっと見ていたいと思うマンガってあまりない。あれを味わうためだけでも漫画読みには一読に値すると思う(でも実は内容はそんなにピンとは来なかった)。五十嵐大介『魔女』(→amazon)で描かれたコンスタンチノープルの話「スピンドル」を思いださせました。

そしてゴキブリが月で人類的な何かに進化したという奇想天外な発想で昨年の「このマンガがすごい」1位を取得した『寺ホーマーズ』は、ヤンジャンと少年ジャンプのどっちつかず的ながっかり戦略&展開で読者を突き放しつつも、まさかの発勁バトルでバキロス読者(わたくし)を新たに獲得しました。単行本を買うのを辞めたわたくしは、バキ再開を心待ちにしつつかりそめの止まり木を楽しみたいと思います。

音楽編

今年もヒップホップに引っかかりました。震災以後の社会へのメッセージを込めたライムスター『ダーティー・サイエンス』(→amazon)から遡る形で、『ポップライフ』(→amazon)、『マニフェスト』(→amazon)を。日本語ラップ、全然行けると思います。



夏以後は、やついいちろう『ゴールデン・ヒッツ』(→amazon)経由で、N'夙川ボーイズと出会ったことが大きかった。やついベストには他にも00年代以降の「名前だけは知っているけど曲は知らない」体のいい曲が入っていて音楽に関してコアではない人間には良いです。それで夙川ですが、『THANK YOU!!!』(→amazon)は夏にはぴったりで、かと思ったら秋もぴったりで、80年代ハートが俺にもあったんだ的な驚きとともにせつなさの海に沈み続けました。


YOUTUBEから好きな曲を貼っておきます。MVも素晴らしい。

年末ぎりぎりになって、DOMMUNE経由で知ったのが蓮沼執太(蓮沼執太 | Shuta Hasunuma)でした。『CCOO』(→amazon)は4枚組のライブを含む音源集。これはいま聞いているところです。YOUTUBEから一枚貼るのは、これを聞いて購入を決めた曲です。現代音楽風だけれどポップなところが自分にとってのフックでした。

ざっくりと2013年のマンガと音楽を振り返りましたが、今年も良い出会いがありますよう。

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お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語