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飛行機の恐怖を乗り越える橋頭堡

日本語学会で沖縄。例によって、最大の関門は飛行機であるが、今回は意外なほどに怖くなかった。前回山形空港から大阪に向かったときは、盆地ゆえであろう上空の気流の乱れと機体の小ささがあいまって、途中下車を真剣にお願いしたいほどの恐怖だった。今回は仙台発だったので、太平洋側の穏やかな気流と何より大きな機体による安定が幸いしたのだろう。畏友soraが「軽自動車とクラウンほどの違い」と言った事は本当だった。

 とは言うものの、やっぱり全く怖くないわけではなくて、離陸時や着陸時のゆれは、それこそ安定して怖い。今回も恐怖から逃れるために、なぜ怖いと思うのだろう、怖いと思う意識のありかはどこかなどと真剣に考えていた。

 僕はとにかく機体の上下左右への揺れがもたらす、生理的な浮遊感や何かに乗り上げる感じが嫌いだ。生理的な、と書きつつも、この恐怖は普遍的なものではなくて何だか分からないけど僕の中で構築されてしまった恐怖であって、ゆえにその構築物をぶち壊すことも可能である、と思おうとしている。事実、飛行機の中ではそんなことばかり考えている。だから気をそらすために激しい音楽を聴いてみたり、わざと違うことを考えてみたり、いろいろ試すわけだが、いざ離陸着陸となるとその恐怖が意識に立ち上ってきて、すべてを覆ってしまう。

 というわけで、今回もギリギリガールズな感じではあったが、発見もあった。それは、着陸時の揺れが、高度が高いときと低いときとで恐怖の大小の違いとなって現れるということだった。構築物と思いたい、しかし生理的な恐怖かもしれないという思いから逃れることができない状態から一歩進めたことは、心の近代化(笑)としては大きな一歩である。実は、今回仙台空港に着陸する直前、風の影響だと思うが、激しく揺れた。エンジン音も大きくなったり小さくなったりを繰り返していたし、左右に何度も傾いていた。操縦士も大変だったと思う。本来ならば、それ級の揺れに直面すると僕は全身の筋肉がこわばって、内臓がギュッとなって、手足の平から汗がじとーっと出てくるのに、わりあい平穏な心で着陸を受けとめることができた。同じ揺れが、高いところと低いところとで感じ方が違うということは、恐怖は生理的なものではない、すなわち克服可能であるということが分かったのである。

 正直、ここを読んでいる人にはすさまじくどうでもいいことだろうが、僕にとってはすさまじくすばらしい発見だったので、もうどうでもいい勢いで書きまくった次第。榎本俊二さんが「ムーたち」のなかで「痛みの限界点を調節することで、大きな痛みもたいした痛みではなくなる」という子どものヘリクツみたいなことを書いていたが、これは真剣に検討する価値のあることが分かった。ありがとう榎本俊二。

コメント

匿名 さんのコメント…
「飛行機の揺れ」がダメなの?
『落ちたらどうしよう・・・』の恐怖じゃないんだ?
私は飛行機は離陸前から眠れるけれど、『死んだらどうなるの』と考えるとパニックになれます。(しかも子どもの頃から)
ねぇ、死んだらどうなるの?
みんな怖くないのかなー。
njm的見解を聞きたい。
NJM さんの投稿…
むしろこういうときに死ぬことにリアリティを感じないのがnjm的といいますか。目の前にあるこの身体的な感覚のほうが、数分後の死よりもずっとイヤだと思うわけです。

死んだらどうなるのかは丹波哲郎先生に聞いてみてください。

飛行機への恐怖について聞いた中でユニークだと思ったのは、鉄の塊が浮かんでいることが合理的に捉えられず、納得できないから怖いんだという話です。流体力学とは言わない、とりあえず理科を勉強してくださいと思った。

その人は鉄が浮かぶことが合理的に捉えられないという同様の理由から船にも乗りません。従ってその人の活動はきわめてドメスティックでした。じゃあ、鉄道だって同じでしょうが、と思うも、そうではないというのが人間の不思議さ。
匿名 さんのコメント…
丹波哲朗もすでにいないじゃんかー。
江原か美輪か?
どうなるかってより(どうなってもどうせ死ぬし)、その恐怖をどう克服するか・・・ってことがね。
みんな日常的にそんな恐怖は意識しないもんなの?

前にTVで、恐怖心てのがすごーく増幅されてしまう病気てのを見て、『自分はこれかっ?!』て思った。
『たけしの・・・』みたいな番組だったから、ほんとにあるのか怪しいけど。

オカルト教団にでも自分の居場所と使命を見いだせば、こんな悩みは吹っ飛ぶか???

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