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「思ったり。」旋風

言語についてはわりあい保守的なうちのオクサマまでがとうとう「と思ったり。」を使ったので、ここまで来たのかと思った。

この「思ったり。」、僕の感覚ではこの1年のあいだに急速に広まった用法だと思う。もともとは「行こうと思ったり、やめようと思ったりした」などのように、複数の動作がかわるがわる行われることを意味する形式なのだけど、新しい使い方では

1) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなとと思ったり

などのように用いる。WEB世界では毎日お目にかかる用法だ。そして、新しい用法が生まれるということは、そこには新しい意味機能が付与されているということだ。この場合は、叙述の断定を避け、あいまいにしようとする、いわゆる婉曲用法というやつだと思う。たとえば、広い意味での婉曲を表現するものには「~と思って。」「~みたいな。」などがあるが、そこに「思ったり。」が参入したということになる。

2) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなと思って
3) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなみたいな

2)も3)もちょっと古い感じがするが、1)と同じように使えそうだ。

4) 今日は急ぎの仕事もないので、家でご飯でも作ろうかなと思う。

4)は婉曲表現なしの、つまりボカシなしのむき出しの形。ということはリアルでエグイ、とかいう話ではなくて(スマン)、少なくともある種の「かわいげ」はなくなる。それぞれ来歴は違えど、類似した表現となっている。

ところで、僕はこの表現がちょっとむずがゆい。何でむずがゆいんだろうとずっと考えていたのだが、思わせぶりなところがむずがゆいんだな、と今日気づいた。つまり「~たり」という表現はもともと複数の動作がかわるがわる行われることにあるので、「~と思ったり。」という表現には、記されていない他の動作があることを暗示されてしまうのだ。

だから、1)には、「家でご飯を作る」以外に何かやりたいと思っていることがある(だけど今は言わないよ)、ということを推測させられてしまう。表現主体には、おそらく「家でご飯を作る」以外の何かは想定されていないだろうが、かつてこの表現自体が持っていた機能の残り香はまだ漂っている。語られてはいないが、語っていない何かがありそうだということが、「(だけど今は言わないよ)」を共起する。それが思わせぶりの正体なんだと思う。むずがゆいついでに、何それ、思わせぶりな言い方をして気を引きたいわけ?というツッコミの一つもしたくなってしまうのも分かるでしょ。

なお、婉曲表現は、きつい叙述内容を和らげるときに用いると特に効果がある。

5a) もうホントにこの人はバカだと思った。
5b) もうホントにこの人はバカだと思ったり

5b)のほうがバカ度が下がった、じゃなくてバカ度そのままで少なくとも言い方はソフトになった。じゃあ活字世界の婉曲表現王、「(笑)」をつけてはどうか。

5c) もうホントにこの人はバカだと思ったり(笑)

おおー。愛があるぞ、ここには。愛が無敵であれば、すなわち思ったり&(笑)コンボ、無敵なりー。

えーと、言っとくけど、「無敵だなあと思ったり(笑)。」などという予定調和的楽屋落ちはしませんからね。落ちはねえよ、放置だ放置。

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