帰国後すぐセンター試験の説明会、雑務を中途半端にこなして研究室の忘年会のため高田馬場に。あれとかこれとか全然終わってない。荷物をかばんに手当たりしだい突っ込んで、沙村広明「無限の住人(22)」(→amazon)、迫稔雄「嘘喰い(6)」(→amazon)を購入して新幹線に。と思ったら、狙っていた時間に乗れず、忘年会にちょっと遅刻した。欠席した会議の資料と宿題を渡される。原稿のほんとうのデッドラインが近づいている。2週間後生まれる子どもの検診で超音波測定による赤ちゃんの画像を見る。超似てる、僕に、女の子。妹のガン手術がひとまず終わる。転移部分の切除完了とのこと。お見舞いまだ。実家に届くように注文していたBOSEのヘッドホン(→amazon)が届いている。音がすごくいい。あらゆることに、感傷的にならずに粛々と、という決意。
子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。
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