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一瞬ぐうの音も出ない朝

うちの職場には寮があって、そこでは日本人学生と留学生が相部屋で暮らしている。なにぶん地方社会は牧歌的で地域外のことに関心を持ちにくい環境であるため、留学生は「日本人ってこんなに外国のことを知らないんだ!」とショックを受けることがこの時期の恒例で、ある種独特な5月病に似た状態に陥ることもある。

「韓国ってコンビニあるの?」「台湾にビルってある?」「台湾ってロシアの北?」「韓国って雨降るの?」みたいな豪速球がびゅんびゅん飛び交う中、「台湾って中国の一部だよね」「韓国って北朝鮮と関係があるの?」など歴史・政治的にギリギリ(いやはっきりか)アウトかも、みたいな質問が純情で素朴な興味としてふわっと出てくる。留学生も悪意がない分、やり場のない思いにどうしようもなくなるらしい。いやー。異文化衝突の初期段階ではあるけれども!そしてアメリカの田舎に留学した日本人学生がショックを受けた話なんかも負けないほどたくさんあるけれども!

とにかくものすごく彼ら彼女らが落ち込んでいるのをフォローするのも仕事なわけだけど、そして悪気はないんだからとフォローにならないことをフォローしてみて、一方で「無知と悪意は根本的にはつながっている」というテーゼが身に染みたりする。という話を朝っぱらからサマオクとかましていたら、「それを怒らずに受け止めるのが知性じゃね?」と言われてぐうの音も出ない朝。ワンクッション置いて、「手がつけられないほど怒り散らして見せるのも知性でいんじゃね?」と返せなかった思いを今ここに。

コメント

ユーぞった さんの投稿…
理解できるかどうかと
許容できるかどうかは違うので
知性があれば説明や説得はできても
怒らずに済むかって言うと
そうじゃないかもー、と思うデス。
ex同僚 さんのコメント…
またそういう輩ほど「きょうはりゅうがくせいとはなして新しい発見があってよかったです。これからも交流していきたいと思います」などとみくし(笑)とレポートに書きやがるんだこんちくしょう。お口チャック!!などとキレ芸を重ねてなだめる側に回らせ、戦意喪失に持ち込むのは知性じゃなくて痴性ですね。はいすんません。
けどね、子どもや学生の無知はかわいいっすよね。なんだかんだいってもね。学びたい、までいかなくても(だからどんなことでも聞けばいいと思うのでしょう)、教わりたい、というところにはいるわけだから。「それを自分が知っている必要はない」という傲岸な確信に支えられた無知はもう手の施しようがなく。
しかし朝からインテリジェントなおうちですね。おくさまにも久々にお目にかかりとうございますよ。
NJM さんの投稿…
コメントありがとうございます。

>ユーぞったさん
 「受け止める」という表現が言葉足らずでした。内心怒っていても、コミュニケーションを重視して怒っていないように見える行動を選択する、という意味です。が、怒った行動をしてもそれはコミュニケーションを重視したことになるだろうと。コミュニケーションを重視、というのはネガティブなものも含めて、ですが、そのチャンネルを確保しておくことが知性ではないか、と。楽天的ですかね。

>ex同僚さん
 そういう傲慢な確信こそが、知性の欠如ってことになるんでしょうかね。あとこれだけ「インテリジェント」な会話が行われるのは、数年に一度で、普段はほとんど朝の会話自体がありません。寝ているような状態の脳で出勤です。ほんとごめんなさい。ていうかこれインテリジェント?!

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