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入手したマンガメモ

入手したマンガメモ。3か月分くらいかな。

ウィスット・ポンニミット『ブランコ4』、久保保久『読んでますよアザゼルさん3』、すぎむらけんいち『ディアスポリス12』、武富健治『鈴木先生7』、迫稔雄『嘘喰い11』、中村光『聖☆お兄さん3』、山岸涼子『テレプシコーラ2部2』、山岸涼子『ジゼル』、杉本亜未『ファンタジウム1~3』、伊図透『ミツバチのキス1』、青野春秋『俺はまだ本気出してないだけ1~3』、多田乃伸明『70億の針1~2』、久正人『ジャバウォッキー7』、さそうあきら『マエストロ1~3』、沙村広明『無限の住人24』、フェリーペ・スミス『ピポチュー1』、福島聡『機動旅団八福神9』、岩明均『寄生獣8(最終巻)』、よしながふみ『大奥4』、東村アキコ『ひまわり10』…あとなんかあるっけ。

いまさら?みたいなのも含む。連載誌のほうで最近記憶が熱いのは、ネウロの最終回と、先週の喧嘩商売、花沢健吾の変な新作くらいかな…。安定してうすたは同世代な匂いを強烈に発し続けてます。「俺カッコイイ」ものへの徹底したこきおろしと、3回くらい捻ってやっぱり愛してますみたいな。

コメント

ed さんのコメント…
久保保久『読んでますよアザゼルさん3』、武富健治『鈴木先生7』、迫稔雄『嘘喰い11』、さそうあきら『マエストロ1~3』
は読みました。『鈴木先生』ってギャグ漫画ってことでおkですよね。あと、これはnjm氏が読んでいて、うんうん、とうなずいてしまったのはどうして。
最近私は安野モヨコの『花とミツバチ』を一気読みして泣きそうでした。ひたすら滑稽。よく人を見ている人ですね。にょりーん。
NJM さんの投稿…
コメントども。

安野モヨコ『花とミツバチ』、そですか。僕が大学生の時に連載やってたような気がします。そんときはあまりピンとこなかったのですが、読み返してみますかね(安野モヨコは好きです)。

それはそうと、僕が鈴木先生の話をすると、怒るか「ギャグでしょ」かどっちかの人にしか会ったことがない。確かに気持ち悪い雰囲気だけでできているマンガですが(たぶん意図的に)、実は僕はこれを本気中の本気で読んでいるのだよね…。そしてみんな笑えるっつのに、笑ったことが一度もない…。7巻の「無期限で」という出水の発言とかうぉーって思ったし。
ed さんのコメント…
鈴木先生についてですが、僕はギャグ漫画だと思いながら揺さぶられてしまうところがグッときます。あの過剰なエネルギー量が笑いになってしまう自分が少し寂しい。njm氏が中学校の先生だったらあーなってたり、くくく。つまり悪い先生ってことですね。

ルノアール兄弟『セクシーダンスガイ ユビキタス大和』
ヤマシタトモコ『恋の話がしたい』
これもオススメです。ちなみに後者はBLです。少女漫画より少女漫画だぜ。
NJM さんの投稿…
鈴木先生を笑う、気持ち悪いと思うのは、本気が半分、ある種の照れが半分なのではないかと思った。いまどきねーよ、この世界みたいな。

ユビキタスは連載で見てた。BLのほうは機会があったら見てみますね。情報ありがとう。

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子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

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