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標準語成立をめぐる読書メモ

何をいまさらという感じですが。講義で標準語成立のトピックスを扱うことに決めて、ダラダラ読んだ本。手に入れやすく、読みやすく、比較的最近のものということで以下。村田雄二郎・C・ラマール編『漢字圏の近代』東京大学出版会,2005(→amazon)、安田敏朗『「国語」の近代史』中公新書,2006(→amazon)、イ・ヨンスク『「ことば」という幻影 近代日本の言語イデオロギー』(→amazon)。僕っていわゆる「国語学」として日本語学を学んだクチですが、「国語学」側からの文献紹介がないってどういうことかと。いちおう、真田信治『標準語はいかに成立したか―近代日本語の発展の歴史』創拓社,1991(→amazon)もあるにはあるけれど。ちょっと古いので制度としての「国語批判」の文脈はない。井上ひさし?『国語元年』?ご当地として?あるけどパス。あと「国語を作った偉い人列伝」みたいな本もオールスルー。

で、いろいろ散読してきたものを改めて集中して読んだことで、少し頭の中で整理ができた。前島密から国字問題、言文一致から小学校読本、植民地獲得から周縁で先鋭化される国語教育という流れ。安田氏の本は、一連の著作の集大成なので入門書としてもいいかも。例によってカルスタを縦横無尽に利用しての近代国語批判だが、旧国語学からのベストアンサーはまだない気がする(あったら僕の勉強不足)。イ・ヨンスクは古典『「国語」という思想―近代日本の言語認識』の続編という位置付け、でいいのかな。村田雄二郎編のは、漢字文化圏の近代化についての概説だけど、ちょっとゆるすぎる感じ。中国白話文のところが面白かった。

のだけど、個人的には、江戸末期はまったく共通語がなかったのかというと、そうでもなくて、江戸の武家の言葉がなんとなーくゆるーく全国に通じていたのではないか、といった指摘が改めて興味深かった。やっぱり「国語学」の人なのかな、とやや自嘲的に「国語学」の文献をいくつか紐解いてみると、ヘボン『和英語林集成』第2版(1872,明治5年)の方言に関する記述に「江戸語を語る者は、教育のある階級の間では、日本国中どこにおいても少しの困難もなく理解されるであろう」(松村明『増補 江戸語東京語の研究』東京堂出版,1998,p.20の訳による)という記述のほか、そもそも幕末から明治にかけて編まれた、外国人のための日本語会話集(アーネスト・サトウ「会話篇」とかね)が、江戸語・東京語に基づいていることなどから、制度に採用される「国語」の素地はそれなりに整っていたことが確認できる。近代国家成立のための暴力とは違う形の暴力が幕藩体制にもあったと。もっとも前者が「国語」を必須の制度としたのとは根本的に異なるので、両者を言語という軸で比較できるべくもないわけだが。

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