内田樹『村上春樹にご用心』(→amazon)読了。内田氏の文章はネットでは拝読することはあるものの、書籍では初めて。でもこの本はネットに書いたものなどを取りまとめているので、結局はネット的?
村上春樹を「存在しないものを描くことで、存在しないものの存在を描いた作家」であるとするお話は、直感的に理解できるけれども、宇宙とか死者とかそういう話になると、とたんに田口ランディーにも似た「胡散臭さ」を感じてしまうのはなぜだ。たぶん、村上春樹の仕事が身体論的な装置を通じて紡がれたものであり、また読む者も身体論的な装置を経由して受容しているという、その身体論的な装置って何なんだよという隔靴掻痒感なのだろう。東洋医学との出会いを通じて、その身体論的な物言いについてある程度の心構えは出来ているつもりではあったが、一方でやっぱり胡散臭いなあという思いから逃れきることもできない。この手の「胡散臭さ」に対する嗅覚は、内田氏に言わせれば、既存の言葉でしか語ろうとしないからであって、僕(あるいは私たち?)がその対象を語るべき言葉に出会っていないから、ということになろうか。
村上春樹を「存在しないものを描くことで、存在しないものの存在を描いた作家」であるとするお話は、直感的に理解できるけれども、宇宙とか死者とかそういう話になると、とたんに田口ランディーにも似た「胡散臭さ」を感じてしまうのはなぜだ。たぶん、村上春樹の仕事が身体論的な装置を通じて紡がれたものであり、また読む者も身体論的な装置を経由して受容しているという、その身体論的な装置って何なんだよという隔靴掻痒感なのだろう。東洋医学との出会いを通じて、その身体論的な物言いについてある程度の心構えは出来ているつもりではあったが、一方でやっぱり胡散臭いなあという思いから逃れきることもできない。この手の「胡散臭さ」に対する嗅覚は、内田氏に言わせれば、既存の言葉でしか語ろうとしないからであって、僕(あるいは私たち?)がその対象を語るべき言葉に出会っていないから、ということになろうか。
「構造的な文学状況の変質」と加藤が指さすものが、もしほんとうに「構造的」な「変質」であるならば、それはそれを実定的に語ることばがいまだ存在しないような変質でなければならないだろう。もし、既成のことばですらすらと記述できるようなら、それは「構造的な状況の変質」とは言われない。「構造的な状況の変質」というようなことばは、そこで起きつつあることを語るための語法や語彙がまだない事態についてしか言われない。(p.180,「激しく欠けているものについて」)
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