留学生が行った企画に、自分のガイドブックを展示するものがあった。自分のプロフィールを日本語で記すという実践作業であるということと同時に、自分たちのことを知ってもらおうという企画意図なのだろう。イラストや雑誌の切抜きのコラージュなどが散りばめられていて、アーティスティックなセンスを感じさせるものもあった。そんな中で、日本語が敷き詰められた盤面に置石のように彼ら彼女らの第一言語≒母語で記される表現も散見された(アジアからの留学生が多いので中国語繁体字簡体字とかハングルとか)。そのように表現される紙面は、いわゆる多言語サービスであるとか、談話におけるコードスイッチングなどのように特定の機能として分析される何かではなくて、書き手の身体に基づいた声の現れとして、独特の強度を持っているように感じられる。
展示のなかには、日本語文の目的語となるような、機能上重要な要素だけが第一言語で記されたものもあった。この展示企画が、一義的には日本語を第一言語とする来場客に向けられたメッセージであることは確かである。でも、多くの来場客には分からないように目的語が彼ら彼女らの第一言語で記されているということは、意味の隠蔽などではなく、まして日本語でどう書いていいかわからなかったということでもなく、書き手のリアルな声の発露であるように思えてならない。もっとも、第一言語だけが身体からにじみ出た特権性をもつわけでもないので、留学生たちの日本語学習過程における、過渡的な現象を僕が過剰に読み取っているだけなのかもしれない。
(補記)
このniji wo mitaというブログを始めるにあたって、ブログでツナガレる世界に対する躊躇や、旧サイトを残すべきかどうかといったことについて幾許か考えたことがある。どちらも、僕がワガママに書きちらしたいことを、そのまま書きちらせる極々個人的な領域を確保できるか、ということだった。それは現実社会やネットの人間関係に影響されることを恐れる、ということよりも、できるだけ何か大きなものに依りかからずに、非俯瞰的に記録したいという心構え、自分なりに課そうとした制約の問題だったように思う(それが幻想であるにしても)。そういう意味では、結果的には「来場客」に分からない言葉が乱れ舞うことも多々あったし、これからも多分そうだろう。僕が過剰に読み取ったかもしれないことは、そうした大事な個人領域にまつわる感覚に基づくものなのだと思う。
展示のなかには、日本語文の目的語となるような、機能上重要な要素だけが第一言語で記されたものもあった。この展示企画が、一義的には日本語を第一言語とする来場客に向けられたメッセージであることは確かである。でも、多くの来場客には分からないように目的語が彼ら彼女らの第一言語で記されているということは、意味の隠蔽などではなく、まして日本語でどう書いていいかわからなかったということでもなく、書き手のリアルな声の発露であるように思えてならない。もっとも、第一言語だけが身体からにじみ出た特権性をもつわけでもないので、留学生たちの日本語学習過程における、過渡的な現象を僕が過剰に読み取っているだけなのかもしれない。
(補記)
このniji wo mitaというブログを始めるにあたって、ブログでツナガレる世界に対する躊躇や、旧サイトを残すべきかどうかといったことについて幾許か考えたことがある。どちらも、僕がワガママに書きちらしたいことを、そのまま書きちらせる極々個人的な領域を確保できるか、ということだった。それは現実社会やネットの人間関係に影響されることを恐れる、ということよりも、できるだけ何か大きなものに依りかからずに、非俯瞰的に記録したいという心構え、自分なりに課そうとした制約の問題だったように思う(それが幻想であるにしても)。そういう意味では、結果的には「来場客」に分からない言葉が乱れ舞うことも多々あったし、これからも多分そうだろう。僕が過剰に読み取ったかもしれないことは、そうした大事な個人領域にまつわる感覚に基づくものなのだと思う。
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